子供の時私は科学の実験とても興味を持っていました。私の生まれた町は貧しくて 本があまりありませんでした。でもある日、アメリカのある市民団体から私の町に たくさん古本が送られてきました。科学実験に関する本を持ちきれないほど両手に かかえて家に帰りました。その時からその時から私は部屋に閉じこもってそれらの 本を一生懸命読みました。けれど残念なことにそれらの本に載っている実験の器具 はアメリカのものでフィリピンでは手に入ることができないものばかりでした。

でもある一つの実験を私は本当にやってみたかったので。自分で道具を工夫して、 父に頼んで電線用テープを買ってもらうとしました。でも父はおこって拒否しまし た。その時以来私は父に何かを頼むときにはそれが買わなければならないものなら ばとても頼みにくくなりました。

今日の福音を読むとこのことを思い出します.私の父と神様の大きな違いは、父に はその電線用テープが私にとってどれほど大切なものか分からなかったのです。一 方、神様は私たちより私たちの大切にしているものを知っているでしょう。時々人 間が神様に頼むことをしないのは、もう神様は知っているからと考えるからです。 実は神様に頼むというのは私たちが本当に必要としているものを確かめることなの です。祈りというのは神様の意志を探すことなのです。

私が子供の時実験に対する興味は消えることはありませんでした。その理由はたぶ ん私のまわりに無い器具や材料を工夫しることがとても楽しかったのです。ある日 私の父は私がいろいろな実験をしているときにじっと見ていたのです。アメリカの バッテリーはフィリピンのバッテリーと違うので,私はその実験がなかなかうまく いかないくて困っていました。その時父が車のバッテリーを使ったらどうかとアド バイスしてくれました。その結果私の作ったモータはうまくまわったのです!とて も嬉しかった.いろいろ工夫しないですぐにそれを手に入れることができたらこの ような喜びを感じることはできないでしょう。今日の福音で祈りをあきらめないと いうことを気を落とさずにと表現してありますが、英語では「心をなくさないで」 とあります。たぶん「心をなくさない」ために祈りが必要なのです。頼んだものを 得るよりも。