私の一番好きな歌の歌詞にこういうのがあります。「このような道を行くのは一 度限り、二度と同じ道を通ることはない。だから何か良い行為ができるなら、そ して周りの人が私の行いによって心地良くなるなら、私にそうさせてください。 そしてこれは 「今」。「この次」ではなく「今」させて下さい。先伸ばしせ ず、無視することなく。もう二度とこの道を通れないから。」

この歌が私にとって意味がある理由は私は貧しい村で生まれたといういきさつが あるからです。子供の時裸足で通学していた友達の姿を目にしてました。雨が降 ると雨漏りがする、食べ物を分けてもらったりするのは。ごく普通のことでし た。このような状況で育ちながら、自分の両親の影響で私は自分自身の性質に気 付きました。子供の頃仲間と遊んでいても、何時の間にかリーダになったり、次 には何をしょうとかこれをしたら。こうなるとか先見の明が自然に身についたよ うに思います。その時私に大き名影響を与えてくれた人は、この町の主任司祭 で。この人はアイルランド人でした。タガログ語がうまく話せませんがタガログ 語の御ミサがんばってしていました。毎朝御ミサの後で私は彼と一緒に朝ご飯を 食べながら中国で彼宗教の弾圧で刑務所に入れられたりいろいろ徒苦労をしたこ となどを私にとってまるでぼうけんのように話してくれました。彼自身は小さい な存在なのに彼の持っているものの全てを何か大きのモノのために捧げたという ことを始めてその時感じました。彼のように擦り切れた服を着ている神父に私は なりたいと思った。

神学校に入る時にはその何か大き名モノのことを忘れていました。私の小さ名町 でバスケットチームは古いボールを使いユニフォームもないのに神学校の生徒達 はバスケットシューズをはいてユニフォームも着て立派名コートでプレイしてい ました。それに私はあこがれました四年間の神学での生活はとても楽しいもので した。大学生活続き、卒業を六か月後にひかえて私は迷いました。良い大学の卒 業証書がもらえるから良い会社に入って。お金持ちになろうか、と考えました。 それでもう一度自分はどの方向を目指すか意味がある人生とは何だろうと自問自 答しました。その時に先ほど話した主任司祭に手紙を書きました。彼はその私の 手紙をコロンバン会の進路指導者に渡したのでした。ある日突然大学にコロンバ ン会から電話が入りコロンバン会の司祭になるための試験と面接の話を聞かれま した。でも私はまだその時は迷っていたので一年間ミンダナオで貧しい人たちと 暮らしました。この一年間は私自身は何も持っていませんでしたが皆の優しさで 生きていました。とても有意機な時期でした。私の子供の頃の貧しい村のことを 思い出して。自分は何か他の人のために有益な人間になろうという考えに戻って きました。それで司祭になる道を続きました。

今日の福音を読むと必要なこと、意味がある行いというのは人によって、条件に よって違っています。今日の福音の場合はマルタのやっていることよりマリアの やっていることの方がその時にはふさわしい行動でした。どうちが良いのかを若 者達が選ぶことができるように祈りましょう。二度と通ることができない道か ら。