人が生きている間には選択を迫られることが何度かあると思います。
その中にはどちらに行ってもたいして変わらないというときもあるでしょうし。

またどちらに行っても良くない、という時もあります。
どちらの方向に行っても同じような結果が見えていることもあるでしょう。

その時あなたならどのような基準で選びますか。

不安がある時に人間が安全な方を選びがちです。
安全というのは複雑ではないし。自分に何の要求もないし簡単ですから。
難しくて分かり難い道を選ぶ人は少ないです。
でも時々より高い価値観によってあえて困難名道を選ばなければならないときも あります。
簡単名道を選ぶのは当然ですが難しさが分かった上でその道を選ぶことは実はそ れが自由ということなのです。

例えば川の流れのままに身を任せているのは簡単ですが、 流れに逆らって上って行こうとする時それがその人によっての自由な意志による といえるのです。

現代の社会を見ると簡単に皆が慣れている方向に行くのは楽です。
習慣になっていますから。習慣になっていることには簡単に従うことはできま す。
「皆やっているから」とか 「当然」とか 「当たれ前」とか。
でもそこには何も新しい物は見えません。 この社会の中で自由は失われている のではありませんか。

今日の第一朗読でこう言います

「自由をを得させるために、キリストは私たちを自由のの身にして下さったので す。 だからしっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」

多分イエス様のように寝るところがない人に従うと何か人生によっての貴重名発 見があるでしょう。

いつも穴にいるキツネは穴の奴隷でしょ。いつも巣にいる鳥は巣の奴隷でしょ。

いつも自由に空を飛んでいる鳥は本物の鳥でしょう。