今横浜教区のカトリックの信者さんの半分は外国人です。浦和教区では外国人の信者さんは日本人信者さんの数を上回ります 。10年前には司祭以外に外国人の信者さんはあまり目にしませんでした。

確かに外国人が日本に来る大きな理由は経済なものです。
自分達の国は貧しいので、どこか別の国に行ってお金を求めるのです。

これらの外国人を経済的面だけで見るのではなく宗教的にどのように理解したらいいか、という話をします。

日本の教会のために、そして日本の社会のためにある人は、これらの外国人達は、 「めぐみ」だと言ています。でも逆に”ゴミ”だと言う扱いもあります。教会に、めいわくをかけているとかいろいろな問題 を教会に持ち込んで来るとかです。あるいは「刺し身のつま」のようにメインではなくて添え物のようだという扱いもあり ます。例えば何かパーティーや国際的な集まりがある時、フィリピンの芸の人を呼んで余興を頼むとかベトナム人を呼んで、 春巻きをを作ってもらうとか。この”めぐみ”と”ゴミ”と”刺し身のつま”の三つは、教会の成長のためには必要なのです。

私達の教会が国際的になるのは、そんなに簡単ではありません。互いにいろいろな文化をもった人たちを、受け止めるのは、 急には難しいことです。他の国の人に「刺し身のつま」のように接するのは、良くないことですがお互いを理解する為の一つ の段階として必要なのではないかと思います。

「ゴミ」のように接するのはひどいことのように感じます。私自身心が痛むことがあります。私自身がきれいずきな日本に慣 れていないのでフィリピン人の気持ちも分かります。じゃま物、めいわくをかける、日本にいろいろな問題を持ち込むなどは 私も時々、恥ずかしいくなる時もあります。でも多分これは日本の教会にとって他の人に関心を寄せるチャンスなのではない かと思います。いろいろな見えない他の国の人のために教会は良く援助していますが身近に助けを必要とする外国人がいるこ とは個人個人にとっても大切なことだと思います。

「恵み」だという接し方は耳に心地良く聞こえますがこの恵みが本当の物だったら教会や私たち自身や私たちの身の回りの物 が変わらなければならないこともあります。例えば日本人の礼拝は昔から日本語だけで行われ、慣れた唄を歌い、いつもおご そかな雰囲気です。でも外国人と日本人とが教会の名の元に一つになったら言葉、文化、習慣、信仰、生き方などが混ざり合 うのです。でも、これらの「恵み」 も「ゴミ」も「つま」も好むと好まざるとにかかわらず現実にあるのです

このそれぞれのとらえ方に、外国人は「恵み」、それから「刺し身のつま」又「ゴミ」としてという三つのとらえ方をしてし まうということは私たちの限界やおろかさなどを神様が教えようとしておられるのでしょう。それを受け止め、今日の聖霊の 降臨のように私たちもいろいろな国の言葉で話しても、皆神の子として生きて行きましょう。