どうしてイエス様が「見ないのに信じるものは幸い」といわれたのか。盲目的に信じることは良いことでしょうか。少ない情報 ですぐ信じてしまうことは良いことでしょうか。厳しい競争社会の中で、充分に情報を集めた上に決めることが良いでしょう。 そうしないと裏切られたり、だまされたり、迷ったり、つまり競争から遅れることになります。現代社会にイエス様の言った 「見えないのに信じる人は幸い」という言葉は間違っているのではないでしょうか。

今日の福音を見たら、トマスは情報集拾という競争では遅れています。又もっとトマスより遅れている人はいます。それは今日 イエス様のおっしゃった「見えないのに信じろ人たちなのです。私たちです。どうして私たちは幸いなのでしょうか。

競争の社会の中では真実より競争に勝つために必要な情報を探しているのです。この社会の中に神様の支えや与えられた存在の 価値、そして自分たちを安心させるような神様の意志と計画を見つけたり感じることがなかなかできないでしょう。それは現代 の人々は神様と対話するより神様についての情報を集めているからです。

しかし、神様についての情報ばかりを集めて遠いところから集めるよりも、近い場所に行って、直接神様と対話することの方が 神様自身を経験することができるでしょう。もっと多く、神様自身を経験するために神様についての情報を捨てなければならな い、つまり情報集拾の競争から手を引かなければならない時もあります。盲目であることによって全てを神様にゆだねること ができます。ある意味で見えないのに信じる人たちは本当に神様の存在を現代の世の中に感じ、その姿を見ているのです。情 報集拾の競争から遅れたけど、幸いなのです。