今週は私にとって戦慄の一週間でした。なぜかというと。二回も幽霊を静めろた めの祝福を頼まれました。ある二軒のバーで働いているホステスさんたちが何か 得体の知らない雰囲気を感じているそうです。私は幽霊は信じていないからその バーを祝福するなんて、あまり気が進みませんでした。私の持っているヒリピン からの祝福の本でバーの祝福二ついては何も書いてありませんでした。家のため の祝福、車のためのしゅくふくなど二ついてはありますが、このような夜の歓楽 街を祝福する次第二ついては、何も書いてありません。そういう場所は罪深い所 だという先入観があります。堕落している所、お酒と麻薬があふれている所とい うイメージがあります。神様の祝福にそういう所はふさわしくないと思いまし た。頼まれましたから、仕方がなく重い足を引きずって行きました。

今日の福音を良く読むと、このお父さんは弟をえこひいきしませんでした。この お父さんの深い意味の平等ということが私たちには理解しがたいからお父さんは 不平等だと思ってしまいます。私たちやお兄さんにとっての平等についての考え とこのお父さんの考えている平等は違うのです。たとえば悪いことをした人はそ れなりの扱いを受け逆に良い行いをしている人はより良い扱いを受けると考えま す。でも平等というのはこのお父さんにとって二人の息子は良くなくても、良く ても、同じ息子なのです。

さっきの話のバーに行って祝福した時彼女たちの持っている祈りの本やロザリオ や十字架やマリアの像と絵を祝福してから。簡単な食事をして皆は喜んで歌をし ながら、お祝いをしました。誰でも神様からの祝福を受けた時に喜びをもらうこ とは当然ではないかなと思います。私たちの先入観で罪人であっても。