時々私は現代の世にキリスト教は何を与えることができるのかと考えます。まだ 意味があるのかないのか、必要があるかないのか。現代の人々のためにどんな善 を与えられるのかと。

ヨハネ。パウルII世は最近手紙で正義について書いています。貧しい人たちの ことや、第三国の借金のことなども。現代は貧しい人たちは銀行からからお金を 借りることさえもできません。なぜなら彼らには抵当となる財産がないから。又 高利貸しやノンバンクについても書いています。それを読むと教会は貧困に対し て責任がある気がしますた。

フィリピンにいた時貧困のこととキリスト教のことは分けて考えることはできな いと思いました。教の福音を読むと同じような印象を受けます。でも教会の弱小 を見ると何ものではと思ってしまいます。

ルカの福音は他の福音と比べると貧しい人々についてたくさん書いてあります。 多分ローマの方にキリスト教の教えが広まったころはキリスト教の生まれたナザ レという小さな貧しい町から大いに栄えているローマに広まったという背景あり 豊かな生活をしているローマの人々に貧困について説明する意味があったので す。

「主の霊が私の飢えにおられる。貧しい人々にふくいんんを告げせらせるため に、主が私に油を注がれたからである。目の見えない人に視力の回復を告げ、圧 迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」

深く考えるとこういう話はお金を持っている人々にも意味があります。福音を受 けたい人、視力の回復を求めている人、自由を求めている人たちのためにイエス 様は神様から遣わされたのです。そういう教えを考えると誰でも見えないところ を持っている、貧しいところを持っている、開放されていないところを持ってい るのです。

多分私たちの小さいカトリック教会は貧困の問題は解決できないと思いますが現 代社会に大事な教えがあります。

神様から恵みをもらうために自分の貧しいさ、自分の盲目さ、圧迫されているこ とを自覚しなければなりません。

ヨハネパウロII世は世界に対して権力がないけれど、彼の正義についての教え を聞くと何となく役に立つと思えて来るのです。多分彼の小さい声と、教会の弱 小さと、教の福音のイエス様の小さい声と貧しい人々の立場の弱さが重なってい るからでしょう。