どうのように考えても死の意味は不条理なものです。永遠に生きることがいいのに。変わらないで、いつでも若ければいいのに 。。。病気になれないのをいいのに。。。体は衰えなければいいのに。。。どうして死ということがあるのでしょうか。何の意 味があるのか。 私も分からない。

死の意味はよく分からないけど。私たちのキリスト教の伝統でおぼろげながら死は命と関係があると説いていています。

今日は亡くなった人達のための祝日です。昨日は聖人達の日でした。その三つの祝日は教会の教えで一つに扱っています。たと えばヒリピンでは御墓参りは故人の亡くなった日ではなくて聖人の日似行います。教会の教えでは亡くなった人達は聖人達の仲 間入りをしたと考えます。まあ。。。私たちのような弱い人間、悪い人間、罪人が聖人の仲間入りをするというのは死のことよ り不条理ではないでしょうか。

もしそうならば悪い人間にもかかわらず皆は亡くなったら神様の下に行くようになります。そうならば、真面目に生活をしなく てもいいことになるでしょう。

でも、死はそれまでの生活が真面目のもなであったかそうではなかったかの判断が下される日になるということは考えているこ とでしょう。聖書にも書いてあるように死はそれまでの生き方を評価する瞬間なのです。今日の福音でイエス様の側にいたかい なかったかで死んだときに永遠の命を得ることができるかできないかが決まる教えています。教会の教えで、神様が私たちの生 きている時にしたことを判断をすると信じていますが、深く考えたら私たちが死ぬ時に神様がなさったことが完全に分かるよう になります。どれほど神様が私たちを愛してくださったかを評価できるとも考えられます。つまり私たちも神様を評価すること ができるようになります。

今まで、私たちの心と頭は未熟だから神様がなさったことの全て神様の愛野深さは分からないでしょう。死んだら私たちに神様 の不思議な意志の全てを現して下さるのです。死の意味も含めて。
今日のと答唱詩篇で

「たとえ死の陰の谷を歩んでも私は災いを恐れない。」