神様に近づきたいという望みは当然のことだと思います。この上ない幸せな生活を送りたいと思うと神様に近づきたいと思うの でしょう。神様がこのような恵まれた生活を与えてくださると思っているから近づきたいと思うのです。それは当然でしょう。

今日の福音のゼベデイの子ヤコブとヨハネはそのような望みを持っていました。 イエス様のこの望 みに対する答えには三つの内容があります。

一つは、神様に近づくためには苦難をうけなければならない。
二つめはそのような望みをかなえられるのは神様が決めるものです。
三つめ神様にふさわしく近づくために僕にならなければならない。

私はヒリピンの貧し人々と歩んでいるときにこの福音の意味を深く感じました。困難な生活を送っている人、権力を持っていな い人と僕のような人達と生活するとおぼろげながら、神の国の助け合いのイメージが良く見えます。

日本に来たばかりの時にこういう苦難の状態、権力がない状態、僕の状態はあまり見えませんでした、私が日本にいることが日 本人によってどういう意味があるか疑問に感じました。 ヒリピンにい たら偉大な英雄のように貧しい人のためにたくさんのことができるのですが、日本では何もすることがないと思いました。

ヒリピンにいたらこの福音の言葉はとても意味があると思えます。 日本では意味がないと思ってし まいました。 でも繰り返し読むと私自身がヤコブとヨハネのように英雄になりたいという考えを持 っていたのだと気付き目からうろこが落ちました。

今日の福音のイエス様の言葉の「それは定められた人々に許されるのだ」私にとってこの言葉の意味は、めいめいが神様から仕 事と居場所を与えられているということです。ヒリピンでも、日本でも、どこでも、それは神様がその使命を決めるのです、私 たちのような僕の決めることではないのです。

ヤコブ、ヨハネ、私、皆様が頼まなくても、 神様が定められた神に近い居場所を備えてくださいま す。