人間はより良い物を求めていると言えると思います。例えば天気ならば晴れの方がいい、そして家族ならば幸せな家族に なりたいと思っていますね。でも時々失敗もあります。探しているものが見つかれない時もあります。その上良いことだ と思ったのに、それはうわべだけだったということもあります。良いものを探すということには限りがありません。

理由の一つとして言えることは。人間が本当になにを望んでいるのかが分かっていないのです。ただ。"いいもの"だけを ほしがっているのです。それにラベルやブランドやタグを人間が必要としているのです。ある商品は有名な会社で作られ ているから良いもの、ある人は良い家柄の出身だからよい人。ある人は有名な学校を卒業したから良い人またある流行は ヨーロッパやアメリカから伝わってきたから良いものだというような意識です。

ある程度それは正しいと言います。でも、このような意識で"良い"の意味は代わるのではないでしょうか。その物自体が 良いということではなくて、作った会社が良いということになるでしょうね。

では聖書でいう"良い"というのはどういう意味でしょう。たくさんありますけど、一つは奇跡とにているものです。奇跡 というのは神様の人間に対する愛を示すことです。聖書での"良い"についての理解ではものと行いは良いと言えるために 第三の目は必要なのです。それは"信仰の目"なのです。信仰の目で良いものというのは奇跡のように見えない人が、みえ るようになること。歩けなかったのに、歩けるようになる。悪い状況から良いことが起こる。他の言葉で言うと有名では ないラベルやブランドにもかかわらず"良いもの"と言えたならそれが信仰の目で見えることなのです。 イエス様はただの大工であったにもかかわらず彼が行った数々の神の愛の証しが見えたらそれが信仰の目です。信仰で見 つけた良いものは本当に良いものではないでしょうか。ブランドより。